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JBDF周年記念寄稿

JBDF10周年によせて

タイトル 執筆者
JBDF疾風怒涛の十年 功刀 義和(初代代表)
10年一昔・・・ 松本 茂(JBDF顧問)
「JBDFの10年、そしてこれから」 取出 恭彦
私とディベート 小山 民子
デベートと私 加藤 浩路
JBDF10周年 熊谷 謙一
JBDF十周年に寄せて、その他雑感 桧山 旦昭
「私とディベート」 田中 康平
ディベートとの出逢い 西田 光弘
ディベートと私 黒川 洋一郎
「ディべートと私」 村岡 正敏
私と英語とディベートと…自分史の1頁から… 佐竹 義信
これまで いま これから 田 北 光 広
10周年おめでとう! 鳥海 京子
ディベート---我が人生 加藤 亨
ディベートと私 小林 幹夫



JBDF疾風怒涛の十年

功刀 義和

 日本社会人ディベート連盟(JBDF)も結成以来はや十年の月日が流れました。この種の勉強会で十年も続くものは滅多にないそうですので、今後さらに発展しながら継続することが確実なJBDFの創立メンバーとしては喜びに堪えません。またこのような素晴らしいJBDFの代表を十年間務めさせていただいたことは私の生涯の誇りです。

 私がそもそもディベートと出会ったのは、新宿のカルチャースクールの速読教室で、千代田化工建設の西嶋洋一さんに「うちの若い者が英語でディベートというものをやっているので行きませんか」と誘われたのがきっかけです。私の仕事は技術英語の翻訳ですが、聞いたり話したりを強化するする必要を感じていました。しかし、普通 の英会話教室には通いたくありませんでした。単に英会話をするのは私の性分に合いません。ディベート教室は英語でディスカッションをするらしいということで、英会話よりは良いかもしれないと考え、新橋のソニーLLのディベート教室に出かけました。「先週、新婚旅行でハワイに行ってきました」と自己紹介した、日焼けしたそしてまだ童顔の残る講師が松本茂先生でした。ソニーLLにおける講義の内容は私をして2年間無欠席で通 わせるほど満足すべきものであり面白く刺激的でした。しかし普段翻訳している英語とは異なる、どちらかといえば法律系の英語の授業やテキストは、最初の頃はなかなか理解できませんでした。2年目の終わりにクラスで合宿をしようということになり、当時松本先生が勤務していた国際武道大学のある千葉勝浦の民宿で一泊の合宿を行いました。2日目のお昼は松本先生のお宅でご馳走になりました。大きな船盛りが出たことを今でもありありと覚えています。帰りの電車の中で何かディベートの組織を作って勉強を続けようという話が出て、それがきっかけでJBDFが誕生しました。そのときの「結成のお知らせ」の一部を示します。この十年間で創立メンバーの半数以上の方々はJBDFを離れ、JBDFの英文名もJapan Businessman Debate FederationからJapan Businesspeople Debate Federationに変わりました。当初は、例会として2ヶ月に1回英語ディベートだけをしてきましたが、途中から英語ディベートと日本語ディベートを1ヶ月に交代でするようになりました。JBDF発祥の地であった新橋のソニーLLも経営が他社に移りすでに存在しません。感慨に耽らざるを得ません。

 

***日本社会人ディベート連盟結成のお知らせ」***

拝啓。皆様にはお元気でご活躍のこととお喜び申し上げます。

 さて私どもでは、5月17日、「日本社会人ディベート連盟」(英文名 Japan Businessman Debate Federation;略称JBDF)を結成したしましたので、ご報告申しあげます。  この連盟は、ディベートの手法を研究しようというもので、手法研究に加え、さらに次のよう  な目的も掲げております。

 (1)ディベートの普及

(2)会員間の親睦と情報交換

ディベートは日本国内ではまだ一部の人にしか知られていません。しかし幸いなことに日本の指導者層にもディベートへの認識が高まりつつあります。例えば、3月31日(日)TBS-TV放映の日曜対談でも細川隆元氏が、国会討論との関連で「日本でもディベートが必要だ」と強調、対談相手の中曽根首相もディベートの必要性については同感の意を表しておりました。われわれは、日米経済摩擦も日本式議論方法と欧米式ディベートのすれ違いにあると認識しています。日本が国際社会でしっかりした地盤を築くためにはディベート研究が欠かせないと信じます。当連盟は、米国の大学で、ディベートのコーチを務めてこられた松本茂先生(国際武道大学講師)を顧問理事として、今後、本格的かつ実践的なディベート研究を進めてまいります。以上の趣旨をご理解のうえ、よろしくご支援のほどお願いいたします。 昭和60年6月 

日本社会人ディベート連盟 理事長 功刀義和

本部事務所 〒223 横浜市港北区日吉本町1727-504

(株)プロトラン内 Tel:044(62)1155

会員募集中

当連盟では以下のような活動を展開していきます。

(1)英語によるディベートの勉強会。

(2)現在、社会が直面している現実の問題に関してのフォーマル・ディベート開催。

 松本先生の講座でディベートの基礎技術を学んだ方々は、当連盟に優先入会できますので、是非この機会に当連盟に入会され、ディベート技術に磨きをかけていただきたく存じます。会費は入会金5,000円、年会費2,000です(フォーマル・ディベートに参加する場合には、先生への謝礼を支払う関係上、応分の実費負担=1回4000円前後=が必要になります。

 

日本社会人ディベート連盟・会則

(Japan Businessman Debate Federation:略称JBDF)

第1条(名称) 本会の名称を、「日本社会人ディベート連盟」(英文名Japan Businessman Debate Federation:略称JBDFとする。

第2条(目的) 本会は、以下の目的を遂行するものとする。

 (1)ディベート技術の研究

 (2)ディベートの普及

 (3)会員間の親睦と情報交換

第3条(事務所) 本会の事務所は、横浜市港北区日吉本町1727-504(株)プロトラン内に置く。

第4条(当面の活動) 本会の当面の活動は次の通りとする。

 (1)英語によるディベートの勉強会

 (2)現在、社会が直面している現実問題に関してのフォーマル・ディベート開催

---中略---

第10条(会費) 会費は入会金5,000円、年会費2,000円とする。

 

役員及び理事(兼理事会名簿)

理事長  功刀義和  (株)プロトラン

専務理事 野村武正  日本経済新聞社・メディア開発本部・編集部

常務理事 日木満   春日部工業高等学校

常務理事 嶋田祥伸  千代田化工建設・コストスケジュールエンジニアリング第2課

常務理事 熊谷謙一  全日本労働総同盟=同盟

常務理事 山田一信  ソニー・海外事務室

理事   岡本吉平  大倉商事・第一鉄鋼貿易部

理事   江利川俊一 ローレルバンクマシン

理事   柴田昌彦  ローレルバンクマシン

理事   近藤晴雄  東電設計・火力本部火力第一部

監査理事 倉持裕   倉持国際特許事務所

理事   川村正樹  暁星国際高等学校

顧問理事 松本茂   国際武道大学

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 このような勉強会が途切れることなく十年の長きにわたり続き、今後もさらに衰える気配を見せず発展することが確実になった理由としては、JBDF方式のディベート自体に魅力がある、とにかく何があろうと続けてきた、そして松本茂先生の全面 的なバックアップがあった、の3つが挙げられるでしょう。生硬な学生ディベートとも、ハッタリに満ちた精神論ディベートとも無縁の、常識を活かしたディベート方式が社会人のディベート方式としては最適であることが立証されたとも言えるでしょう。例会のディベーターの確保に苦労することがあるにもかかわらず定例ディベートは一回たりとも穴を明けたことがありません。合宿や日米交換ディベートも確実にこなしてきました。松本茂先は、とくに最初の5年間は毎回定例ディベートに来られて、的確なコメントをしてくださいました。我々のディベートは、ディベート後のコメントを聞いてはじめて完結することは会員の皆さん全員異存がないと思います。

 私は職業柄一日中部屋に閉じこもって仕事をしており外国人と交渉することなどありませんので、ディベートを勉強しても直接役に立つことはありません。しかし、新聞・雑誌などを読むとき、そしてTVニュースなどを見るとき、Evidence-Reasoning-Claimの三角形を通 して判断するようになったことと、人前である程度筋の通った話をすることがそれほど苦にならなくなったのがディベート学習の収穫でしょうか。私がディベートの勉強を続けたのは、ディベートのもつ一種の知的満足感に惹かれたのでしょう。また、一日中一人で仕事をしている私にとって、様々な職業の会員のみなさんとのお付き合いはとても楽しく有意義なものです。合宿や海外遠征はとても楽しい思いでとなって残っています。私がタイ人の妻と結婚したのも、もとはといえば、会員の取出さんが仕事でタイに赴任して、それを利用して海外遠征と称してタイへ行ったことです。

 振り返ってみれば、JBDFの十年は、ソ連および東欧諸国の崩壊、バブル経済の発生と崩壊、自民党一党支配の終焉と連立内閣の成立など政治経済社会の激動とまさに軌を一にした十年でした。それはJBDFがこの10年間にディベートした論題に如実に反映されています:

 武器輸出三原則を廃止すべきである/税収に占める所得税の割合を大幅に減らすべきである/靖国神社を国家管理すべきである/保安処分を立法化すべきである/スパイ防止法を立法化すべきである/原子力発電所を廃止すべきである/テレビ番組の規制を大幅に強化すべきである/マル優制度を廃止すべきである/アメリカからのコメの輸入を自由化すべきである/食管法を廃止すべきである/原子力発電所の建設を促進すべきである/ディベート教育は日本人ビジネスマンにとって有益か否か/アメリカ企業の公共事業参入を認めるべきである/東南アジアからの未熟練労働者を受け入れるべきである/ガン告知を義務付けるべきである/未熟練外国人労働者を受け入れるべきである/陪審制度を導入すべきである/日米安保を廃止すべきである/選挙権を18歳に引き下げるべきである/日本政府は子作りを大幅に奨励すべきである/日本は代理母制度を認めるべきである/小選挙区制を導入すべきである/死刑制度を廃止すべきである/夫婦別 姓を法制化すべきである/サマータイム制度を導入すべきである/国連常任理事国入りを果 たすべきである/首相公選制を導入すべきである。

 これからの十年もより一層激動の時代になることが予想されます。JBDFで学んだディベートを、困難を克服しチャンスを活かす極めて強力な武器のひとつとして活用して、激動の時代を乗り切っていこうではありませんか。

 今後のJBDFいちばんの課題はアクティブ会員を増やすことではないでしょうか。最近、対外試合で好成績を納めるようになりJBDFの知名度が上がるにつれ、定例ディベートの見学者や合宿の参加者が著しく増加してきたことは喜ばしいかぎりです。このような人達を大きく取り込むJBDFの在り方を緊急に検討すべきでしょう。今後のJBDFのより一層の発展を願ってやみません。

JBDF活動記録

1985年5月17日    創立総会(創立時会員数13名)

 7月5日         第1回フォーマルディべート開催。 

 10月26、27日   第1回合宿 (幕張OVTAセンター)

1986年6月28、29日 第2回合宿(軽井沢スケートセンターホテル)

 12月3日        第2回総会

1987年2月11、15日 第1回海外セミナー(タイ)

 5月16、17日     第3回合宿 (幕張OVTAセンター) 

 5月31日        第1回日米交歓ディべート(都市センタホール)

 12月12日       第3回総会

1988年3月       第2回海外セミナー(台湾)

 8月18日        SONY招待ディべート参加

 9月03、4日      第4回合宿(鳥山クラブ)

 12月9日        第4回総会

1989年6月17日    第2回日米交歓ディべート(日本青年館)

 8月19、20日     第5回合宿(八王子大学セミナーハウス)

 12月1日        第5回総会

1990年7月14、15日 第6回合宿(コート葉山)

 7月29日        未来塾招待日本語ディべート参加(準優勝)

 10月21日       日本語公開ディべート(日本は陪審制度を導入すべき)           

 12月21日       第6回総会

1991年6月21日    第3回日米交歓ディべート(新橋勤労福祉会館)

 7月21日        未来塾招待日本語ディべート参加(優勝)

 9月7、8日       第7回合宿(コート葉山)

 11月10、17日    横浜ディべート大決戦(準優勝)

 12月20日       第7回総会

1992年         日本語ディべートをワークショップとして隔月で開始。

 9月5、6日       第8回合宿(コート葉山)

 12月18日       第8回総会

1993年7月9日     第4回日米交歓ディべート(港勤労福祉会館)

 6月5日         一人制ディベートトーナメント大会

 7月4日         未来塾日本語ディベート大会

 9月4、5日       第9回合宿(箱根 静雲荘)

 12月17日       第9回総会

1994年7月3日     未来塾日本語ディべート大会参加

 9月10、11日     第10回合宿(箱根 静雲荘)

 12月16日       第10回総会

1995年7月1日     第1回ザ・デイリーヨミウリ・ディべート・トーナメン                        ト参加

 3月25日        JDA10周年記念第1回日本語ディベート大会参加

 7月7日         第5回日米交歓ディべート(渋谷区こどもの城)

 7月16日        未来塾日本語ディべート大会参加

 9月2、3日       第11回合宿(箱根 静雲荘)

 11月11日       親睦旅行(群馬県 上毛高原 太陽館)

 12月15日       第11回総会

1996年3月23日    JDA日本語ディべート大会参加(準優勝)

 6月7日         第6回日米交歓ディべート(港勤労福祉会館)

 6月29日        第2回ザ・デイリーヨミウリ・ディべート・トーナメン              ト参加(優勝)

 7月7日         未来塾日本語ディべート大会参加

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「10年一昔・・・」

JBDF顧問 松本 茂

JBDFが設立されるきっかけとなったのは今はなき「ソニーLL新橋スクール」に開設されていた英語ディベ-ト講座である。小生がスコット・ハウエル先生(上智大学)のご紹介で前任者の佐藤寧先生(明治学院大学)から引き継いだのが1982年4月である。アメリカから帰国して半年後で、まだ26歳だった。そして87年12月までの5年9ヶ月間担当した。3ヶ月コースであったが、くり返し受講する方も多かった。その中でも功刀さんの計2年間が最長である。受講者の英語レベル、知的レベルが高く、講師としてもやりがいのあるコースであった。84年3月には千葉県勝浦市に引っ越したので自動車で120キロの道程を往復した。居眠り運転で田んぼに落ちそうになったこともあるが、苦になることはなかった。

 JBDFの設立の1年前には「勝浦英語ディベート・セミナー」を開催した(1984年6月2-3日)。参加者は、松本のほか、功刀、谷島、近藤、相馬、吉木、倉持、山田、川村、日木。このセミナーの帰りの電車の中でディベ-ト団体設立の話が出たらしい。

 そして、その約10ヶ月後の1985年3月28日(木)、英語ディベート講座打ち上げの席(新橋「晴菊」)で話が具体化した。そして、その2カ月後の5月17日(金)に同じ場所で設立総会を開催した。会の名前は大きいのがいいということを小生が言い出し、JBDFに決定した。JBDFとしての第1回合宿は1985年10月26-27日にOVTA(幕張)で開催した。会場入り口には「歓迎 日本社会人リベート連盟」とあり、全員びっくりしたのを記憶している(「ディ」と「リ」では大違い)。

 さて、こういうまじめな勉強会が、なぜ12年以上も続いているのだろうか? 

私は以下のことがその要因ではないかと考えている。

1)知的に楽しいと実感できる時間をもてる。

  会社の人間関係や仕事から解放され、議論をするという知的なコミュニケーション活動を楽しめるということが最大のポイントではなかろうか。逆に言えば、ディベートを重荷に感じてしまう人はやめていってしまうような気がする。JBDFでは会社の大きさ、職位 、年齢、性別、学歴は全く関係なく、ー人間としてディベートを楽しむという雰囲気があったことがよかったと思う。

2)出席を強要しない。

  例会やディベートには基本的には、出たい人がでる、出れる人がでる、という方針でやってきたのもよかったのだろう。ある意味ではいい加減なのであるが、この適度のいい加減さがよかったと思う。社会人にとって仕事や家庭が第ーである。出席を強要されると気が重くなる。

3)やるときはやる。

  たとえ出席人数が少なくともやることはちゃんとやる。合宿でもしっかり勉強する。JBDFはあくまで勉強の会であるということを皆がしっかりと理解して活動を行なってきたのがよかったと思う。単なる人間関係のネットワークを広げることを第ー義に考えている人は少なかった。また、会を商売や勧誘の場として利用するような人もいなかった。

4)底辺拡大の活動をする。

  小生がソニーの講座を降りてからは新入会員の確保が問題となった。しかし、これまでの役員の方々が熱心に広報活動をしたり、初心者向けワークショップを行なってきたことが底辺拡大、新入会員の獲得に貢献した。ある程度の参加人数を確保し、会の活動がマンネリ化しないためにもこれからも新人会員を獲得していくことが大切であろう。

 まあ、いずれにしても会員にとって有意義な活動をつづけていく限りJBDFは不滅であろう。これからもディベ-トを楽しみ、20周年の祝杯をあげたいものである。

 

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「JBDFの10年、そしてこれから」

取出 恭彦

 JBDF設立時のメンバーの一人として、この10年の活動を振りかえってみると、やはり、よく続いたなあという感慨をおぼえる。10年といっても、私自身は86年から6年間タイに駐在していたのだが、タイにいる間にもバンコクでタイ日交歓ディベートの様なものをやったり、また、熊谷さんから送られてくるNEWSLETTERを毎回楽しみに読ませて頂いていたし、一時帰国の時にはディベーターとして参加させてもらったりで、帰国した後もあまりブランクを感じなかった様に思う。そして帰国後も、日米交歓ディベートに檜山さんと参加させてもらったり、いろいろと充実した活動をさせてらった。JBDFの活動で、仕事とは離れて、一種の達成感、満足感を味わえる事はすばらしい事だと感じている。

 さてJBDFのような、会社組織等とまったく関係のない一種の勉強会が、10年間ほぼ毎月活動を続けているという事はかなり珍しい事らしい。JBDFの活動とはいったい何であろうか。参加する人はそれぞれ、いろいろな目的を持っていると考えられる。ディベートという一種の知的ゲームを楽しむ、という事もあるであろう。

 また、ディベートを勉強して、自分の仕事に役立てたいという考えもあるであろう。それから、英語ディベートをやる事によって、英語の能力に磨きをかけたいという事もあるし、また、ディベートで取り上げるいろいろな論題をディベート的な解析をする事により、政治、社会等に対するものの見方を深める、という事もあると思う。私自身とってのJBDFの活動の意義は、これらのミックスだと思われるし、また、JBDFの活動を通 して得られる、人との繋がり、Human Networkが貴重な財産だと考えている。 

 さてそうすると、今後のJBDFの姿はどの様なものであろうか。今後も基本的には今と変らずに、毎月の活動を続けていくというのも、それはそれで大変価値のある事だろうと思う。ここでは、別 の発展の可能性を考えてみたい。ディベートの論題にするなら、「JBDFは活動のネットワークを世界に広げるべし。」とでもなるであろうか。プランは以下の様なものが考えられる。

 1.インターネットを通じて、世界中でディベートに興味がある人、やったことのある人を募る。

 2.定期的にインターネット上のディベートを試みる。

 その場合従来の口頭でのディベートとは違った形式になると思われるので、適当なルールを確立する必要がある。

 3.口頭での国際交歓ディベートを年に1ー2回おこなう。

プランのアドバンテージとしては、ディベートのおもしろさ、有用性を世界に広

める事ができる事、ディベートを通してのHuman Networkを世界に広げられる事等であろう。否定側の立場に立てば、プランのworkabilityがまず問題になるであろう。多忙な社会人の勉強会としては、現状の月例ディベートを維持するだけで大変なのに、そのうえ、ネットワークを世界に広げるというのは、時間的制約からいっても不可能。また各個人の趣味でやるだけならともかく、グループとして、インターネットディベートを企画実行していくのは、容易ではないといった事である。しかし、JBDFにはコンピューターに詳しい人も多いし、またこの分野のハード、ソフトの発達のスピードの速さを考えると、案外近いうちに、何でもない事の様にプランが実現できるかもしれない。

 10代といえば人間でも、最もいろいろな事を経験して成長していく時期である。

JBDFも10代になって、これからの発展の可能性をいろいろと模索し、挑戦していきたいものである。

 

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私とディベート

小山 民子

 私とディベートの出会いは、大学に入ってまもなくのことでした。将来、英語を使って仕事をしたいと願っていた私は、大学の授業では飽きたらず(そんなに真面 目だったかしら...)、とはいっても語学学校に通うほどのお金もなかったので、てっとり早くESSなるものの英語クラブの門をたたいていました。

そこで初めてディベートなるものを知った訳ですが、大学の部活動としてのディベートは、最終目標が全国大会で優勝することですから、必然的に活動内容も高度で難しく(当時はそう感じました)バンドを組んでいて出遅れた私にはとても厳しかったことを覚えています。当然、ディベートは当時の私にとっては楽しいものではなく、ただただ苦痛の一

言でした。そういえば、ディベートセクションのチーフをしていた同期の男の子に「ディベートを好きになってください」と言われたっけ。ハハハ...(^^;)。

さて、そんな私が社会人になって?年目になってもディベートを続けていられるのは本職としてのディベートではなく、趣味としてディベートを気長に捉え、本来の楽しさを味わえるようになったからだと思います。

ディベートの魅力を一言でいえと言われたら、何はなくとも、その「スリル」にあると断言します。あのスリルというか「恐怖」(おっと、脅かしてはいけない)は、やった人でしかわからないでしょう。試合が始まる前までは「何でこんなもの引き受けてしまったのだろう」と後悔の嵐です。そして誓うのです、二度とディベートなんてやらないぞ、と。

フフフ...もう遅い。そう思っているあなたは、もう既にディベートのアリ地獄にはまり込んでいるのです。(-_-メ) 試合中は無我夢中で乗り越え、終わってみたら(特に負けたときなどは)、悔しさいっぱい。「ク○ーッ。次回は絶対勝ってやるーっ」 はい、これでディベート中毒の一丁あがり!!!

コホン、ちょっと真面目に...。私がディベートをやる目的は、その「スリル」を味わうこともありますが、一方ではものの見方を訓練することに重点を置いています。いつも物事をフェアな観点で見ていたいし、そういう人間になりたいと常々願っているからです。これは私が天秤座生まれであることと多少関係あるかもしれませんね(?)。果 たして自分

が成長しているかは別として、日常生滑・ナは自分と相反する人の立場b烽ネって考えるようになりました。また、新聞やテレビの報道に対しても、鵜呑みにせず、疑問を多く投げかけるよう努めています。説教がましいかもしれませんが、これってなかなか大切なことだと思いますよ。

最近はワークショップ(勉強会)で講師を勤めることもありますが、痛感するのは「知らないことは教えられない」こと。ここに来て、お気楽ディベートにも限界を感じてきています。よりシステマティックに教えられたらな。もっと勉強してディベートをもっと楽しみたいと思います。道は長いけど、気長にやろうっと。(あ、またお気楽になりそう)

 

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デベートと私

加藤 浩路

 「ディベート」という言葉を初めて聞いた(見た)のは、上京後、本屋さんで英語に関する学習書の棚にある書物をあれこれとつまみ食い(読み)しているときだったのではなかったかと記憶しています。そのとき、すでに学生ではなかったので、「大学のESSに入部->ディベートを学ぶ->立派なディベーターに」という道はなかったし、他に「ディベート」を教えてくれるところも知らなかったし、特に学びたいと思わなかったのが本音です。航空管制官という仕事がら、専門用語の英語のみ使用しており、特に日常において会議や議論の機会もないので「ディベート」を学ぶ必要性がなかったからかもしれません。

 それでも一度だけ、学生の日本語ディベート大会を新聞で知り、見学に行ったのですが、そのときの印象といえば「どのチームも膨大なほどの情報カードを持って、とにかくしゃべるのが早い」といったことでした。

 月日はながれ、沖縄の外れの下地島に転勤となったとき、FENや英語放送が聞けなく、(これは何と英語のブラッシュアップをせにゃ2年後の社会復帰はむずかしいぞ)と感じたときに、出張先の本屋で見つけたのが「英語ディベート実戦マニュアル」松本 茂著でした。その本の中で「英語力の伸びが感じられず、壁にぶちあたっている人には、とくにディベートを薦める」という一節に目を引かれ、本を購入し、それでJBDFの存在を知りました。当時代表者だった功刀さんへ下地島から手紙を書き、「東京に戻ったときはぜひJBDF見学をさせて下さい」とお願いし、今日に至った具合です。

 JBDFに入会した感想はアットホームという感じです。入会前は学生試合の印象から「ディベートと相手側をとにかく論破する」というイメージがあり、JBDFは堅苦しいサークルではないかと思っていたのですが、社会人の集まりのJBDFは「新橋福祉会館」でもその後の「よりみち」でも和気愛々といった感じで、初心者の私もすんなりとけ込めたような気がします。

 実際にディベートを自分で初めてやってみて、まずなによりも人前で話すことの難しさを感じ、反対尋問や反駁ではしどろもどろの状態で自分でも何をどう言っていっいいのかわからない状態です。しかし、せっかくこのようなディベートを学べる場を見つけたのですからこれからも積極的に参加し、アドバイスを聞きながら、少しでも論理整然と話せるようなりたいと思います。そのうち日米交換ディベート大会のような舞台に上れること目標に努力したいと思います。

 

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JBDF10周年

熊谷 謙一

 JBDF10周年。この間、この会やメンバーの皆さんからたくさんのことを学び、多くの貴重な、楽しい経験をすることができました。松本先生、功刀前代表、加藤現代表をはじめ、皆さんに心から感謝したいと思います。

 1984年、東京にはビジネスマン向けのロクな英語教室はない、と確信しつつあった私は、ソニー新橋スクールの松本教室で目を開かれる思いをしました。というのは、ディベートは、当時、ときどき国際会議に放り出されていた私のいくつかの「なぜ」に回答を与えてくれたからです。

 第1の「なぜ」は、どうして、私が会議の議長にドヤされたかということでした。1983年、インド・ニューデリーでの会議で、2日目の夜に、極東グループの何人かが議題に問題があるというので、3日目の朝に私が修正を求めました。その時、英米で教育を受けたという温厚なフィージー人の議長が、私をにらみつけて「もう決めたことだ」とドヤしました。恥ずかしいことですが、ディベートの途中でプロポの修正を求めるようなものだったからです。日本人は、重要なテーマについて、会議期間中に夜昼の根回しをして、うまく行かなくなってから発言し、タイミングを逸して相手にされない、ということがありますが、これも同根でしょう。韓国、台湾などの極東グループに同様な傾向があることも発見でした。

 当時の第2の「なぜ」は、国際会議では、ヘビーなテーマであっても、どうして、5時以降はプライベイトタイムとし、パーティでワインが楽しめるかということでした。これも、第1の「なぜ」の延長で、会議が、議題設定、基本テーマの論議、サブテーマの論議、結論の確認と、ディベートのロジックで整然と進行するからです。もっとも、ディベートに触れてからは、逆に、後戻りのできない論議への緊張感が強まり、会議終了後、観光予定の1日をホテルで寝ていたというような情けないこともありました。

 海外でのJBDFのネットワークを実感したことも、この間の楽しい経験でした。バンコクでは、取出さんにお世話になりましたが、当時私の担当していた「JBDFニュースレター」を熱心に読んでいただいていることを知り、たいへんうれしく思ったものです。台北では、商社の支店長であった岡本さんが、突然の電話連絡にもかかわらず、松本先生の本の現地海賊版を持って面 会にかけつけてくれて、ディベートの結びつきの深さを感じました。アムステルダムでは、望月さんに空港まで出迎えていただき、オランダだけではなくヨーロッパのさまざまな話をうかがい、JBDFオランダツアーの可能性の話も出て大いに盛り上がりました。

 そして、もちろん、国内でも、ディベートの準備などで、多くのメンバーの皆さんと、早朝や夕方の喫茶店で、あるいは、DRINKING PLACESでお付き合いをさせていただきました。これは、世にいう「異業種間交流」などにとどまらず、インター・ビジネス・コミュニケーションの楽しさを実感させてもらい、また、素晴らしい友人を得ることもできました。

 さて、これからのJBDFですが、夢は大きくふくらみます。まず、ディベートを国際時代の論議の「基本ソフト」として浸透させることだと思います。そのための提言を各方面 に発信する時期ではないでしょうか。それから、INTERNETの波に乗り、活動とコミュニケーションを広げるチャンスが到来していると思います。そして、JBDF活動の国際化。日本の外国人コミュニティでJBDFが話題となるよう積極的な交流ができると素晴らしいと思います。

 JBDFは、お互いに多忙な仕事を持つことが多く、活動の拡大には限界もあると思います。しかし、若い熱心なメンバーも増えてきていますし、これまでの「10年」を支えたパワーも健在です。社会人ディベートのパイオニアグループとして、夢の実現に向けて前進できるよう、私も努力したいと思っております。

 

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JBDF十周年に寄せて、その他雑感

桧山 旦昭

 まず冒頭にJBDF創立十週年を心からお祝い申し上げます。

自分のことはあまり書きたくないのですが、私は現在のメンバーリスト中ではかなり古い方のメンバーの一人であろうと思います。従って、定例のdebate以外に合宿や旅行など、それなりにいろいろの思い出がありますが、それらについては特にここでは書きません。

私が少し書きたいのは「十年」という時間の経過が意味することについて、です。今でこそ会社とは無縁の生活を送っていますが、会社勤めをしていると本当に毎日があくせくとした感じで過ぎてゆき、気がつくと「もう何年経ったのだなあ。」ということになるわけです。もとより会社生活にも節目節目というものはありますが、単純化すれば大体そういう感じになります。

一方、家庭生活の面から見ますと、私のように子供の無い家庭では、これまた平々凡々に毎日が過ぎて行くので、二人とも毎年少しづつ着実に老化はしているのですが、極端に言えば十年一日のごとき感じになります。これが、子供がいれば、子供の成長速度は早いので、当たり前ですが十年経てば生まれた子供は十才となつて小学校の四年生にもなり、或いは小学一年だつた子供は高校の二年生にもなって下手をすると親よりも背丈が高くなつていたりするので、親はいやでも十年という月日の持つ重みを実感するわけです。

たまたま私は現住所の横浜市金沢区に住み着いてから23年2ケ月余も経ってしまつていますが、これだけ長く同じところに住んでいると、住み始めたころにはまだ小学校前の幼児でそのあたりで遊んでいた子供が、ふと気がつくともう何年も前に結婚して自分の子をつれて歩いている、といった事も決して珍しくはありません。こういう人に出会うと自分が十年一日のような生活をおくっている間に世の中は動いているのだな、という感を深くする次第です。

話は変わりますが、「五木寛之」という作家をたいていの人はご存知と思いますが(かれの小説や評論を読んでいなくとも、その名前位 は)、かれはタブロイド版の夕刊紙「ゲンダイ」に創刊以来「流されゆく日々」というタイトルで社会批評の雑文を書いています。その12月26日号から29日号の4回にわたって「さらば激乱の95年」という一文がのっていますが、詳しくは直接にその文を読んで貰うこととして、「エントロピー的現象」「老化」「資本主義の成人病」「経済的ニヒリズム」「乱世」「思想の革命、意識の革命、感じ方の革命」等のキーワード、さらに文末の「こうして今年も暮れた、という実感」という書き方など、たまたま自分の年齢が五木氏のそれと近く同世代であるためか、かれの考え方はまさに私の考え方とほとんど同じである、という感じです。

以上、JBDFの創立十周年についての感想が、とんだ方向にそれてしまいましたが、月並な感想文よりも少しは”まし”かとも思って書きました。最後に、去年は町内会や同窓会の仕事などで何かと多忙となり結果 的に出席回数も少なかったのですが、今年は(特に四月七日の町内会新役員への引継ぎ総会で任期が終わった後は)もう少し多く出席できるのではないかと思っています。今年特に注力したい事は、翻訳、debate、PC通 信、Internet, Windows-95, etc.で、テニスも下手ながら健康の維持という目的もあって、週一回はやりたいと思っています。とにかく、ひまで何もする事がない、という状態には絶対になりませんから、その点は私から言うのも変ですがご安心ください。

 

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「私とディベート」

田中 康平

 JBDF10周年おめでとうございます。

 私は社会人になってからディベートと関わりました。その後ディベート(JBDF)の活動に積極的に参加できたか?と問われれば、答えは残念ながらノーです。欠席がちでちょっと肩身の狭いながらなぜ続けられられるのか?との問いに私は「ディベートの考え方が私の生活、仕事に大変必要であり、しかもこれは通 りすがりのものではなく非常に奥が深く一生ものである」と考えるからです。また月例ディベート後恒例の反省会?(飲み会)での話が非常に楽しいからに他なりません。

 ディベートに興味を持ったのはそもそも英語が好きだったからです。洋楽・洋画好きが講じてコツコツ語学を勉強してきましたがある程度行くと、今度は発想の違い・文化の違いの壁が立ちはだかり、更に進むと今度は語学だけでなく人と人とのコミュニケーションに興味を持ちました。ディベートは私にとって「コミュニケーションの骨格」であり、ディベートのメカニズムを理解することによって単に語学・仕事だけでなく普段の生活にも生かせると思えるのです。人にメッセージを送り、突っ込まれながらも説得し、納得してもらう。極端に煎じ詰めるとこのようなことであると思います(異論があるでしょうがここはお許しください)。ディベートは限られた時間の中で自分の立場を明らかにし、聴衆を説得していく。その為には余計なことは言わず要点をまとめ発言し、相手から出された反論に対し自分の立場を立て直し、自分の考えを主張する。その中には最小単位 のコミュニケーションが存在すると思えます。普段私は感覚的に、意識せずに人と接しコミュニケーションをごく当たり前にとっていますが、時にしてそのメッセージは誤って伝わり、誤解され、人を傷つけ、人を失うことに陥ります。。ディベートはコミュニケーションを考える上で結果 的にミスコミュニケーションを減らすことになります。日常にディベートで反駁されるような激しい突っ込み、反論はたまにしかありませんが、メカニズムを理解することによってよりよいコミュニケーションがとれることは間違いないでしょう。

 もちろん、ディベートを行うことは、チャレンジングです。私個人はまだ修行が必要な

のでもっと試合に参加しなければなりません。今後何とか調整をつけて参加したいと思っています。

 最後に、ここまで続けられたのもJBDFに関わるすべての方のお陰であり、感謝致します。ディベートの話だけでなく、話題のつきない広範な話、合宿、温泉旅行など、時にして苦しいディベートを楽しくさせるものがJBDFにはあります。今後も社会人のため      のディベートの普及を目指し、次の20周年を全員で迎えましょう。

 

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ディベートとの出逢い

西田 光弘

 素直と言う言葉と天の邪鬼という言葉があります。素直であるということは人間性の最も大事な部分です。天の邪鬼、よい意味では用いられませんが、その要素として、本質を見抜く力を備えてゆくためにこれも又大事な事ではないでしょうか。親から、教師から、本から、世論から教わることを鵜呑みにすれば、物事の2面 性や、その裏側を知る機会を損失することになります。どんな物事にも必ず、それに対して少なくとも二論、そして大体複数以上の考え方があるのが普通 です。色々な考え方に出合うとどんな人も恐らく「そうかなー?」「それはちょっと違うんじゃないの」などと疑問の芽が 芽生えることは多かれ少なかれあると思います。ただ、「私は 思う、なぜなら 」と、しっかりとした意見を述べられることは少ないと思います。というのも、論理づけて考える方法を持ちあわせていないか、深く考える癖を持ち合わせていないかのどちらか、もしくは、その両方だからではないでしょうか。

私はそういう癖はあるくせに方法を持ちあわせていなかったので、新しい知識を吸収する度に己の無知加減に嘆息し、なおかつ必要なときに必要なものを取り出す事の出来ない、ガラクタを詰め込んだ押し入れの様な知識は、文字どうりガラクタだなーと時折思いつつ気づかぬ ふりをし 又、新たなガラクタを求め飢えた夢追いバクの様に、書物を読み漁っていたのです。

しかしすべての事象は人生において、完璧なタイミングで起こる様で、彷徨うバクにも

ディベートに出逢う時が来ました。ほんのつい一年前、二七にしてのことです。(今は、小学生からディベートをやっているそうですが・・・) ちょうど、オウムの上佑氏が ディベートをどうのと騒いでいた時の事です。(当時、私はそのことを全く知りませんでした。)ディベートの本を物色しようと本屋にゆけば、なんと平積みになっているではありませんか。(なんだ?今はディベートブームなのか?)と、思いつつそのシンクロニシティと完全なタイミングに一人、満悦気味でした。

そんな経過を経て、通常色々な、特に社会人の会合、組織は土日開催が多く悔しい思いをし続けた私もJBDFは金曜開催という事でとうとうディベートという本質探究の門を開くことが可能になったのです。

誤解を恐れづに言えば、ディベートは本質を見抜き判断基準を明確にする為のゲームであると理解しています。ゲームにはルールがあり勝敗があり、仲間がいます。JBDFも例外ではないのは、参加させて戴き分かりました。そして若輩であるにもかかわらず、

先般、ディベートの壇上に上がらせて戴きました。壇上が有意義だったのもさることながら 、そこに至るまでの過程こそが、私の持っていなかったブレーンストーミング術、頭の使い方が実は大事な部分であると実感しました。そして、これこそが、色々な事象にぶつかり選択の連続である人生において対外的に解決する前に、もう一人の自分とのディベートによって曖昧でなく、力強く生きていくための方法なのだと。

今後、私にとってディベートが体に頭に染みわたるようにまず 習う事は真似る事なり

から色々皆さんから学び盗みそしてやがては西田色の広角打法の様なディベートを繰り広げられたらと念願しています。

 最後に、英語によるディベートも是非実現したいと思っています。 平成八年一月五日

 

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ディベートと私

黒川 洋一郎

 私がデイベートに初めて接したのは、たぶん、協力隊での語学訓練の時だったと思います。昭和48年夏です。今考えると、あれがデベートと呼べるものだったかどうか疑問ですが、とにかく米国人講師の指示のもと、確か、「捕鯨は是か非か」についてクラスで議論しました

その時は、賛成派、反対派それぞれ自分たちの希望で選んだと思いますが、やっている内に、かなり感情的論争になってしまい、その後二度とやらなかった記憶があります。

 その時に興味を持ったこともあり、また、外国人と会議を持ったりする機会の中で、彼らの論理展開の巧みさに散々やられっぱなしだったりして、デイベートには関心を持っていました。

 そんな中、たまたま取出さんの新聞インタビュー記事を読んだ訳です。ただJBDFが

英語だけでのデイベートの会だったら、たぶん、取出さんに電話する勇気はなかったと思います。日本語と英語、隔月で実施していると書いてあったので、電話出来た次第です。

 95年7月の会合に初めて参加させて頂きましたが、その日は英語だったこともありデイベート自体は、何が何んだか解らなかったと云うのが正直なところですが、終わってからの例会が大変好きになり、例会の二次会、新橋駅ガード下の中華飲み屋さんで入会しました

 11月に日本語でデビューさせて貰いましたが、取出さんのご指導のお陰で、緊張でかなり手は震えたものの、何とか立ち往生はせずにすみました。そのあと皆様から過大な評価まで頂き、何か、ようやくJBDF準会員くらいにはなった感じがしています。

 次は英語でのデイベートですが、96年11月までには挑戦したいと考えています。

その後で、JBDF正会員と書いた名刺を作ります。 1996.01.11

 

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「ディべートと私」

村岡 正敏

 ディべートというものを初めて教わったのは、87年のソニースクール新橋校でのことでした。松本茂先生が講師で、講義内容は私にとっては本当に新鮮でおもしろかったです。何でこの講座をとったのかという先生の質問に、みんなは「論理的な思考方法を身につけるため」というような仰々しい理由を言うと「それより本当は英語をもっとしゃべれるようになりたいからでしょう?」と一言、全員で笑った覚えがあります。私にはそれまで日本語ですらまともに議論するなどということはあまりなかったですし、またその内容が政治、経済に及び、ましてやそれを英語でやるなどということは夢のようなことでした。いったい英語でディべートなどということができるようになるのだろうかと不安でした。当時は仕事上でも英語を話す機会はまずなく、必要とされるのはほとんど読み書きのみでした。だから尚のこと人前で英語を話し、相手と丁々発止とやり合うディベーターには憧れていました。ディべートをなぜやるのかと聞かれれば、私の場合、結局は「カッコイイから」ということになるようです。このカッコよさには、英語をぺらぺらとしゃべるカッコよさもありますが、それ以上に理路整然と語るカッコよさや間髪入れず議論をやりとりするカッコよさ、そして人に訴え熱弁するカッコよさがあります。そして後の方のカッコよさには言語に関係ない中身のカッコよさがあり、より難しいものです。

 昨年11月にラスベガスのCOMDEX/FALL'95というCOMPUTERの展示会を見る機会がありました。そこで印象的だったのは、今をときめくMICROSOFT社のブースの規模の大きさとそのDEMONSTRATIONの迫力でした。WINDOWS '95のデモだったのですが、EXHIBITORの一人がPRESENTATIONを、そしてもう一人が観客代表として否定側に立ち、回りの観客を巻き込みながらユーモアを交えて対抗します。最初のPRESENTERは、否定されたことを一つずつ返しながら相手を納得させ、最後には否定側がWINDOWS '95の良さを認め、買わざるをえない状況に追いつめられていました。一瞬、ここは新橋の福祉会館ではないかとさえ思ったほどです。それにしても双方とも私にとってはえらくカッコよく見えました。

 内容のカッコよさを身につけるのはより大変なことだと思います。相手側に内容をチェックされ、また相手側の出方次第で臨機応変に対応し機転を利かせて即答しなければいけない厳しさはかなりの訓練が必要だとつくづく感じています。話し方も自分では気づかなかったのですが、色々なクセがあるようです。スクールでは最後のディべートをビデオにとってもらって一人々先生からコメントをしてもらったのですが、自分のクセがよくわかって参考になりました。そんなことも考えるとカッコよさに辿り着くまでにどれくらいかかるのかと半ば諦め気分になってしまいます。

 とは言えディべートから様々なことを学びました。その中でも仕事上だけに限らず日常的に一番応用がきいたのは聞くことでした。人の言ってることをポイントを押さえて聴くのは訓練が必要だと思いました。仕事で議事録をとったり、聴いたことをまとめなければいけない時に大いに有効だと実感しています。ディべートのフローシートの取り方は正にその究極ではないでしょうか。私は未だにアレがぐちゃぐちゃになることがあり、惨めな思いをすることが未だにあります。いつかアレを後で見てその試合が再現できるほどにキレイに書けるようになりたいものです。そんな夢をめざしている私にとってこのJBDFは、本当に有り難い存在です。

 JBDFに入会してからもう8年が過ぎましたが、その割にはあまり進歩が目立たないのが辛いとは言え、活動を通 して様々な人と知り合いになれたのは貴重な財産だと思っています。試合前の打ち合わせを通 して、その人のことがいっそうよくわかるものです。時には、打ち合わせをしながらふと気がつくとなぜか飲み屋にいることもありました。みんなそれぞれディべートについては思い入れがあり、その話題になると話は尽きません。学生ディべートとは違う社会人のディべートを追求してきたJBDFにも10周年を迎えました。これからJBDFのディべートを確立して行こうという動きがあるように思いますが、面 白いことだと思います。、この会自体が、いろんなことをディべートした上でいいものを取り入れながら変わって行くことは望ましいことだと思います。是非これからもできる限り参加させてもらい、いろんな人と出会って、多くを学んでいきたいと思っています。

 とにかく10周年に CONGRATULATIONS!

 

 

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私と英語とディベートと…自分史の1頁から…

佐竹 義信

私にとっての英語ディベートの訓練は、次のように整理できる。

1)英語の勉強の牽引役:

 実際の仕事と、英語の学習とは、「忙しい」、「時間が無い」など、の一見もっともらしい理由づけで、ややもするとギブアップしやすいのが常であ る。何らかの牽引役が必要で、ディベートは、その役目を、充分に担ってくれる。逃げられない環境に自分を置いておくためには、極めて有益。

2) 英語の実用訓練:

 英語での発表力、対応力、反応力、説得力などを養うことは、通常の日常生活の中では、全くと言ってもよいほど訓練の場がない。(キッタハッタの練習舞台はない)

3) 社会的問題を考える機会:

 普通、気にしていても、なかなか手が出せない、動機が無い。特に、日本人社会では、たとえサラリーマンであれ、仕事第一の環境下で、半ば強制的なきっかけが必要。  

4) 広い観点から説得の技術習得:

 単なる語学力や知識だけでなく、どのように相手に教えるか、異なる考えを持っているひとに理解させ、かつ、同意をさせられるように誘導、説得するかの話術、論法上の勉強とトレーニングの場。

5) 仲間の重要性:

 何事も一人で、始め、完結するのは大変。「志」を同じくするもが、一つの目的に向かって共同、並びに、お互いに切磋琢磨しあうことは、2倍、3倍の力になる(可能性をもっている)。

 私にとって、最大の参加目的は、当初、上記の1)、2)の、英語学習の動機ずけ、並びに、技術の習得であった。残念だが、どのように効果 が上がったかについては、言語の勉強としての性格上、数値的に挙げることは出来ないが、私自身の判定では、英語によるディベートは確実に、この目的には、役だったと思う。私は、英語にも、それぞれ、年代別 の言葉、または、学生の英語、サラリーマンの英語、シニヤ市民の英語等、年齢、経験にもとづいたそれぞれの表現があり、常に、ふさわしい英語を身につけている必要であるのみならず、新しい言葉も次々と出てくる。何事にも常に備えておく努力は欠かせない。英語ディベートは、国際的な広がりを 錘揩ツビジネスマン、政治家、アカデミックや、研究の分野に従事する人々に有益のみならず、必要不可欠なもの、と考えている。3)、4)、5)、のテーマについては、ディベート参加するために、自分にとって興味のある無しにかかわらず、勉強しなければならなかった。これは、私にとっては、ディベートの副産物的ではあるが、それぞれのテーマについて、基礎的な知識を身につけることが出来、さらに、視野を広げることが出来るので、後刻、大いに役立つことが多かった。 各々のディベートの論題、内容は、まだ、私自身の中に生きており、少なくとも今日まで持ち続けているいることに気が付くのだ。例えば、『首都移転』については、移転と一口で言っても遷都、展都、分都、分権、等色々の形態があること、いずれ、何らかの手を打たねばならなくなることをを学んだ。10年近くたった今、改めて政府の重要課題とされ、より現実的な話題になり再燃しつつある。ディベートに付随して学んだ内容が、昨日のことの如く蘇ってきて、理解と意見のまとめに役だってくる。『日本のこめ市場 カの解放』は、まさに現実の問題となった。国内の自由流通のみならず、多国間の流通 が話題となる昨今である。小山嬢と組んで奮闘した『外国人労働者』については、日本国での特殊な発展として、「在外日系移民の日本国内での労働」という新しい社会の動きになって現われた。そして、海外在留日本人、不法滞在外国人問題へと、発展してゆく。逗子合宿でのプロポ『陪審員制度』は、シンプソン事件を判りやすく理解せしめ、人種問題の難しさにも目を向けさせた。『インフォームドコンセント』は、もはや、自分自身のために考えねばならぬ 問題となり、他人ごとでない年齢になってしまった。そして、介護保険制度へと、関連分野に広がって行く。『原子力発電』;青森六ヵ所村、プルトニューム、グリーピース運動、フランス並び中国の実験、更に、「もんじゅ」のナトリューム漏れ事故など、などなど。生きた社会とのかかわりあいの接点として、こと欠かない。 これらの、ディベートのために勉強したテーマと、それに関わる諸々の事柄が、そのまま実生活での、知識 又、経験の、一部として根をおろし育って行き、そして、確実に役立っている。これら諸テーマの積み重ねは、幾何級数的に、そのディベーターの将来の人間性を豊かに、かつ、大きくする様に思える。この点は、特に若いかたがたにディベートをお進めしたい理由の一つだ。こんな状況の中、私は、日本でのJBDFに期待されているものは非常に大きいと思う。極めて日本的なコースだが、私は会社員としては定年を迎え、しばらくの間、秋田に単身赴任することになった。秋田市は秋田の県都である。全ての面 で県の中心だが、国際交流や、国際ビジネス活動に関する限りは、秋田県、市は、他の各都道府県並びに、各主要都市と比較して、下のほうに属するところだろう。現役の仕事から解放され、ふるさと秋田に来て、生活を取り巻き育てる豊かな自然と、人々の温かさにふれる毎日だが、JBDF 活動には益々、参加しにくい遠いところに来てしまった。その秋田(正しくは雄和町)に、米国ミネソタ大学の秋田校がある。既に設立後5年経過し、これからその真の力量 や、存在の意義を問われる時期にはいる。

 しかし、文部省学校令に則っていないこと、学校経営の専門家、又は それに代る良きアドバイザーやコンサルタントの不足、地元支援母体のおっとり刀、等心配も多いのだが、活動範囲が限られているとはいえ、県民の為には極めて有用な存在となり得、将来の国際化に向けても、大きな通 風口になりうる筈だ。小さいけれど、典型的な地方の夢の発祥地の一つになりうる筈だ。あるとき、ミネソタ大学秋田校学長 その他、ミネソタ大学の高職位 者にお目にかかる機会があり、意見を求められたので、その答えの一つとしてディベート・コンテストへの参加を提案した。地方のこと故、パブリシティーとしても、秋田校の学生達の意気高揚のためにも充分効果 があるだろうと思ったのだが、今年は、教育、準備の時間もなく参加できなかった。これからの楽しみとも言える。果 たして外国の学校にその参加資格はあるのか?、制度のハンディキャップはどう扱われるか?、ディベーターの候補学生は充分にいるか?、他の大学チーム(帰国学生も多いと聞く)に比べ、大学側、学生側の体力はどうか?、活動資金は?、など、越えねばならないハードルは多い。こんな環境下で、私は、社会人の『英語プレゼンテーションとディスカッション』の研究グループ(通 称 TIE:TALK IN ENGLISH)、ミネソタ大学秋田校の、夜の社会人学級『英語ディスカッション』のクラスに参加して、勉強させていただいている。大学ではオープン・ユニバーシティーでの講師もやらせていただいた。わいわい、がやがやの毎日だが、これらのグループから発展した仲間達とも刺激しあい、さらなる国際化の波に翻弄されないように学んでいる。毎年、年をとるが、私のディベートに対する思いは、まだ、思春期時代のまま頓挫しているのが実態だ。何時の日か、再び、ディベターの機会が与えられた時には、秋田なまりの英語でJBDFの諸兄姉を煙に巻いてみようと、雪の中で策を練っている。ご注意あれ。

 

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これまで いま これから

田 北 光 広

 “これまで”

 (1)学生時代(広島)

 大学に入学してE.S.S.に入った私は、幾つかあるセクションのうちディベートを選びました。特に興味があったという訳ではありません。当時のうちのディベートセクションは未熟で、トーナメントディベートに関する知識は殆ど無かったと思います。それから2か月程して、山口大主催のディベート大会を見学に行った時です。ステージ上で聞き取れないほど早く、しかも流暢な英語で話し、それに対し激しく冷静に反論。しかもそれをジャッジが正当に判断し、勝ち負けが決まる。一度でそのかっこよさとインテリジェンスに魅せられました。これが私とトーナメントディベートとの出会いです。その時の衝撃は今でも心の中に、強く残っています。

 それからのE.S.S.での2年半は、とりあえず“トーナメントディベートに出場する”ことが目標でした。他大のディベセクに教わりに行ったり、セミナーに参加したりでゲームのノウハウの研究や練習に多くの時間を費やしました。結果 として、二年次には学内大会の開催、そして3年次には念願の大会出場(松山大学主催)を果 たしました。最後の大会の結果は散々でしたが、その3年間にわたる一連の活動を通 じて、非常に多くの事を手に入れることが出来たと思います。客観的な視点、前向きな思考回路等は、口頭のディベーティングスキル以上に有効に作用しています。

(2)JBDFとの出会い(東京)

 そしてACに入社し、上京してきました。①こちらには知り合いも少なく、また時期的にも広島が恋しくなったこと。②心の中には大学時代私を支えてくれたトーナメントディベートへの志向が消えずに残っていたこと。 以上の2つの理由により、東京におけるディベートのコミュニティがあれば参加したいという意欲が、湧いてきました。そこで広島時代に一度お世話になった瀬能さんに連絡を取り、結果 それがJBDFに入るきっかけになった訳です。

 月に一度の活動で、まだ1年余りしか参加していないのですが、ここでも多くのことを知り得ました。 時間に余裕の無い社会人でもディベートが出来ること。日本語でのディベートが英語と変わらず可能であり、かつその大会も幾つか存在すること。そしてその大会に出場し、入賞できたこと!!。なによりも多くの素晴らしくユニークな方々と出会えたこと。社会人となり、充実した生活が過ごせている大きな要因は、やはりJBDFです。今後とも、よろしくお願いします。

 “いま”

 (1)名古屋ディベートライフ(名古屋)

 そして私は昨年(95年)の9月よりここ名古屋にいます。仕事の都合で、半年から1年の滞在予定となっています。従ってJBDFの活動参加は休止状態です。名古屋でもディベートの活動を続けたいと松本 茂先生に相談したところ、田口さんという方を紹介していただきました。英語を教えられる傍ら、ディベートにも積極的に取り組んでいらしゃるとてもユニークな方です。早速連絡をとり、そこでしばらくお世話になることに決めました。ということで、その田口先生がやっておられる名古屋月曜会に参加。私の名古屋ディベートライフのスタートです。

 ここで簡単に月曜会の活動を紹介したいと思います。

 ① 活動時間・・・毎週月曜日 午後6時30分~8時30分

 ② 沿革 ・・・元々は英語専門の学習団体だったらしい。いまはディベートも盛んに取り組んでいる。今年で10周年。

 ③ 活動内容・・・定例の月曜日活動。他にも約2月に一度の対外向けディベートセミナ ー。年一度のディベート合宿。そして9月ぐらいにメインの内部ディベート大会の開催。定例の月曜日活動の内容は前半がCNN等のリスニング、後半はショートスピーチ、メンバーの研究発表、ディベートなど様々。ただし大会が近づくと、ディベートの比重が高くなるらしい。ちなみに活動後の飲み会は残念ながら無し。

 ④ メンバー・・・アクティブは5~8名位。教職者が多い。そのせいもあってか、月曜会周辺では、教育の場の為のディベートという色合いが感じられる。対外セミナー等も同様 に先生の参加が多い。とまあ、こんな感じです。東京での社会人ディベートが、主にビジネスマンの為という感じなのに対し、その違いがとても興味深いです。また、変な話ですが東京を離れてからのほうがディベートに触れる時間が増えたような気もします。JBDFに帰ってから、今の経験をよい方向に活かすことができればと、思います。

 “これから”

 (1)活動目標と私の理想とするディベート

 さて、ではこれからのJBDFにおける目標を2つと、私のトーナメントディベート考を述べて終わりにしたいと思います。

 一つ目の目標は、外部のトーナメントディベートに出場し、優勝することです。前にも述べた通 り、大学時代の目標は、大会に参加することでした。それが達成され、さらに昨年は、JBDFの活動の一環として2つのトーナメントディベートに出場、しかも両方とも1試合ずつ勝つ事が出来ました。よって必然的に次の目標は、(かなりステップアップしますが)大会優勝となるのです。何年後になるか判らないけど、頑張ってみるつもりです。

二つ目の目標は、分析/リサーチ効率化の研究です。年末の発表時にも言いましたが、多くの場合、“ディベートは分析/リサーチで決まる”と考えます。プロポジションという、たった1文のインプット情報をもとに、試合におけるスピーチ原稿やQ&A、全体の構想、様々な戦略等を構築する訳ですが、このステップを誰でも簡単に、効率よく、時間に余裕の無い社会人でも無理なく取り組める“設計図”の制作/完成がこの研究の最終目標です。(VER1.0としてDM/Rを作成。昨年暮れにJBDFで未成熟ながら発表させてもらいました。現在はVER2.0となり、内容も大分解り易く、スリムにまとまったと思っています。月曜会では、月1回ペースでこの内容の発表/検討をさせて頂いてます。)最終的に内容が煮詰まった時には、もう一度JBDFで発表したいです。

 最後に、トーナメントディベートでは、一般の人々にも関係した、現実に問題となっている題材が論題として多く取り上げられます。私はディベートの最も素晴らしい点は、聴衆、ジャッジ等の第3者に、そのベストソリューションをアウトプットとしてデリバー出来る事であると考えます。この理想に向かって今後も取り組んでいきます。

 

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10周年おめでとう!

鳥海 京子

 その電話がかかってきたのは、昨年、秋も深まったある晩(ある朝というべきか?)の午前1時半少し前であった。昔は真夜中過ぎに電話をしてくるとんでもない友人もいたが、最近はみな「大人」になったせいかめったにその時間に電話口に出る機会も少なくなっていたので、一体こんな時間にだれだろうといぶかしみながら電話に出ると、相手は英語で話し始めた。"CAN I SPEAK TO MR.SUZUKI?" 「ああ、またか」と思った。というのも、この年の始めに私は新しい電話番号を使用するようになり、同じ名前を尋ねる電話をそれまで頻繁に経験していたからである。このような時、私の応対はこうである。”正しい番号にかけておられる。この電話番号所有者(使用者)は以前は「スズキ」という人であったようだが、今年の始めからは別 人である私で、申し訳ないが調べなおして欲しい” そして、今回も同様の説明をした。彼女はニュージーランド人で友人のロシア人女性と一緒だという。どうもパブかディスコのような飲む場所にいるらしいことがバックミュージック・騒音等の様子から想像がつく。驚くかな、彼女は、"ARE YOU SURE THAT HE IS NOT WITH YOU THERE?" "YOU'RE NOT TELLING ME A LIE, ARE YOU? HOW CAN I BELIEVE YOU?" と図々しくも発言したのである。その後、細かなことは忘れたが、とにかく彼(「スズキ」とやら)がくれた名刺には事務所としてこの電話番号が書いてあるし、連絡してもちっとも連絡がつかないし、自分の友人でここにいるロシア人女性は先ほどから泣き通 しで、彼のしたこと(嘘をついて何かしたことは確からしい)は決して許せない、何とかして欲しいと、まあこのようなことをかなり感情的に私に述べたのである。あまりの突拍子のなさに私はむしろ可笑しささえ感じ、彼女に相づちも打ち、若干の状況確認もした。その話は何ともつかみようのない話で、無論、私が手助け出来るようなことも無かった。どうもビジネス絡み、個人関係絡みの込み入ったもののようであった。まあ詳細は良くわからないが同情する旨も述べ、しかし、この電話番号は10ケ月程前にNTTを通 じて購入されたに過ぎず、前の使用者と私との関係は全く皆無で何も出来ないから勘弁してくれ、と電話を切った。「ロシアから来た女性を泣かせるような日本人男性というのはどんなんかいな」と逆に好奇心さえ感じながらも、その女性に大いに同情したものである。さて、驚いたことに、その約10分程後、又、彼女から電話がかかり、同じような調子の話が始まったのである。今回も同じようなことを立腹した調子で述べたてる。時間は既に午前1時半を回っており、だんだん私は腹が立ってきた。ただ、この手の人種は単に電話を切ったところで何回もこうした電話攻勢を繰り返す恐れがあるという予感がしたので、徹底的に話を付ける必要あり、と判断を下し(ここで私のディベート魂が奮い立ったわけである)、今度は、攻撃に転ずることにした。向こうが同じことを繰り返し始めた頃、私は、初めて自分の分析と意見を述べた。まず、電話の所有者が完全に変わっているという歴然とした事実を繰り返し、その時期の確認・NTTを通 じてのこのような電話売買の通常の手続き背景等の情報も加えて説明した。此れ迄の何ケ月間に「スズキ」を尋ねる電話が頻繁にあった事実と私がそれにかなり辟易している事実も述べた。「スズキ」某が適当なる「電話番号変更通 知」を関係者に出していないことも明白である、と結論付けた。又、逆に、私が彼女に嘘を言う理由がなぜあると思うのか、を彼女に問い正した。下記2点においての答えを求めたのである。即ち;(1) "WHAT MAKES YOU THINKTHAT I MUST TELL YOU A LIE?"; そして、(2) "YOU OWE ME A BIGAPOLOGY. WHAT IN THE WORLD YOU THINK THE TIME IS NOW? AT THIS TIME OFTHE DAY, SURPRISINGLY, YOU ALREADY CALLED ME TWICE. YOU DEFINITELYSHOULD APOLOGIZE ME FOR DISTUBING MY TIME AND SLEEP, AND MOREOVER YOUSHOULD FEEL YOU ARE LUCKY, BECAUSE I SPEAK ENGLISH. I UNDERSTOOD WHATYOU WANTED TO TELL ME IN ENGLISH COMPLETELLY, AND I ANSWERED ALL YOURQUESTIONS, TO THE BEST I KNOW. YOU ALSO SHOULD APPRECIATE IT FOR MY

EXPLAINING TO YOU ABOUT WHAT'S ACTUALLY HAPPENED TO THE PHONE NUMBERYOU ARE CALLING."これで彼女が完全に納得したという確証をむろん私は持てなかったが、結局、彼女は夜中に電話をしたことについて、比較的素直に私に対して謝った。そして未だ会話を続けようとしたが、彼女のトーンはぐっと力のない(哀願に近い)ものになったので、私は、"OK. NEVER CALL ME AGAIN. IDON'T WANT YOU TO CALL ME ANY MORE. NEVER AGAIN. BYE"と電話を切った。その5ー10分後、またもや驚くべきことにもう一度電話があったが、今度は日本語をしゃべる中年の日本女性の声だった。「N.Z.女性の知り合いではないが、ここにいる外国人女性二人が悩み、一人が何やらずっと泣いている様子なので同情し、彼らの代わりに電話をしている」というようなことを言った。同情するのは彼女の自由だが、世の中には良い年をして非常識な人がいるものである。私は、半ば義務感と意地に近い感覚を意識しながら、先ほどと同様の内容を今度は日本語でこの日本女性に伝え始めた。彼女は(多分耐えきれずに)私が話しているその真最中に何も言わず電話を切った。「なんと失礼な!」と前にもまして私は腹がたったが、同時に、なぜか私は「これで二度と電話はないだろう」と確信するに至り、実際、その後は邪魔された我が静寂のプライベート・タイムを貪り楽しむ状態をとり戻せたのである。相手の主張を良く聴き、内容を分析・判断し、事実/エビデンスに基づき必要に応じて発言と質問を繰り返す習性、そして、懸案課題のより良い解決を目指そうという視点・態度は、JBDFの10年の歴史と共に、知らぬ 間に私の中にも育っていたようである。ちなみに、その後今日までのところ、彼女からの電話連絡は全くない。

 

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ディベート---我が人生

加藤 亨

 今回、この原稿を書くにあたって、改めて、私のディベートの歴史を振り返ってみました。私が、SONY LLスクールで松本先生のディベートクラスを受講したのは、1985年の7月からでした。 それまでは英会話コースを受講していたのですが、英語で話すという以外に何の価値も見出せない会話に飽き飽きしていたわたしは、ある日、パンフレットでディベートコースというのが有るのを知り、見学させてもらい、松本先生の非常にわかりやすい英語で時事問題やディベートのセオリーを解説する授業風景に「これなら付いていけそうだ」と、自らの英語力を省みずに受講の申し込みをしてしまったのでありました。

 ところで、JBDFのニューズレターによると、JBDFの結成のミーティングが行われたのが1985年の5月19日との事でした。実を言うと、JBDFの結成と私がディベートを始めたのが1ヶ月位 しか違わないという事実は、この原稿を書くために過去の資料を見直すまで、わたしはぜんぜん知りませんでした。というよりも、その以前に有ったという勝浦での合宿などの話しから、わたしは今まで、JBDFの設立は私がディベートを始める1年以上前の話しだと思い込んでいて、それを疑っていませんでした。

 それはさておき、7月にディベートコースに入門したわたしは、9月に19日に記念すべき第1回目のディベートを行っています。ただし、これはJBDFのフォーマルディベートでは無く、SONYのディベートクラスでのディベートであり、その時の論題

は、"Resloved:that Japanese National Railways should significantly increase non-smoking cars." でありました。

 さて、その後10年以上続くディベートとの付き合いのきっかけとなったのだから、さぞかし華やかなデビューであったかと想像する方々も多いかと思いますが、実際はえらく大変なデビュー戦でありました。というのは、私が初めてディベートに参加するという事で、肯定側の立論を担当する事になっていたのですが、その時のパートナーの方とは、「原稿は私が作るから、あなたはそれを読んでくれれば良い。」という約束になっていたのです。

 今考えるとそう言う約束をすること自体問題であるといわれても仕方が無いのですが、まあ、初めて参加するのだからそういうものなのかなと気楽に構えて当日を迎えました。(当時は3人制のフォーマットで、立論を担当した人はその後は何も話さなくてよかった。)ところが、その日の朝になって会社に電話が掛かり、パートナーから、「ごめん、かぜひいて行けなくなった。」「えー、それじゃ原稿だけでもFAXで送ってよ。」「ごめん、まだ作ってない」「・・・・・?!」てな会話があり、その日の夕方までに、立論の原稿と、反駁の内容を考えなければいけなくなってしまったのです。(自業自得?)

思えば、この経験が、「その場になれば何とかなる」という私のディベートスタイルの起源になってしまったのかもしれません。とにかく、その電話から夕方までの業務時間の合間をぬ って、資料を読み、原稿を作り上げ、初めてのディベートの場に望んだのでありました。その様な準備の情況でしたので当然のことながら、肯定側は終始押されっぱなしで第二反駁を迎え,とても勝てる情況では無かったのですが,否定側の犯したわずかなミスを最後に突き,結果 としては辛うじて勝利をものにしたと記憶しています。(もっとも、残念ながら公式な記録は残っていない。) ディベートにおいて私の最も好きなパートは肯定側の最終反駁なのですが,それはこの時の経験に多分に影響されている様です。

 一方、JBDFはと見ると、1985年の7月5日に第1回のフォーマルディベートを開催しています。この時は、わたしはまだディベートを初めておらず、当然参加していませんが、9月6日の第2回と、11月1日の第3回には、ビジターとして参加しています。ただし、英語のスピードが早くて聞き取れなかったり、専門用語が判らなかったりで、内容は全く判らず、自分とは別 世界との印象を受けたように記憶しています。

 ところでSONYのディベートクラスでは、3ヶ月が1期となっており、始めの2ヶ月で講義を行い、あとの1ヶ月はディベートとビデオセッションを1週交代に行い、最終日はディベートをして打ち上げに行くというのが慣例でした。85年の12月19日は私にとっての2期目のディベートクラスの打ち上げでしたが、その席にJBDFの功刀代表が来ている目的を、単にJBDFの紹介だけかと思っていた私は、「加藤さん、2月のフォーマルディベートのディベーターお願いします。」という言葉にそれまでの酔いも吹き飛んでしまいました。しかも、論題が、"Resolved: that preventive detention of persistent offender should be legislated."という、殆ど何を言っているのか判らない論題に、首を縦に振らない私に対して、「ベテランが一緒ですから大丈夫ですよ」という調子で何となくそれで決着が付いた形になってしまいました。(ご存じの方も多いと思いますが,功刀さんというのはセールスマンとしての非常に高い能力を持っているのです。)

 その時のパートナーとういのが、現在長崎放送に勤めている当時学生の加地君でした。その時の打ち合わせの内容をすべて覚えている訳では有りませんが、DA(不利益)を述べる際にはプロセスとインパクトを明確に述べる。ジャッジがなぜ我々に投票しなくてはいけないかの根拠を示して投票させる。というようなディベートの基本的な戦略を教えて貰ったのが今でも印象に残っている。その甲斐あってか、初めてのJBDFのフォーマルディベートも、(これは記録が残っているのですが、)辛勝を納め、以来、10年以上の付き合いとなってしまいました。

 さて、実はその当時、JBDFの内部では、運営方法をめぐる混乱が起っていました。先に書いた通 り、当時わたしはJBDFという組織は、すでに何年も続いているものだと思っていたので、このごたごたには少なからずびっくりしていました。メンバーの出入りは頻繁にあり、また、担当者の役割も決まっておらず、合宿や飲み会のたびにそんな話しばかりが繰り返されていました。思えば、86年から87年の初めての日米交歓ディベートまでが、JBDF最大の危機だったのかも知れません。とは言うものの、87年の2月にはタイへの海外遠征を行い、現地のテレビ局の人気番組でとなっていたディベートの番組のメンバーと交歓ディベートをする機会を得るなど、華々しい活動も続いていましたので、そんな深刻な危機というわけでもありませんでしたが。

 さて、1987年の6月に、記念すべき第1回のJBDFの日米交歓ディベートが行われたのですが、いろいろと人選に難航したりしたのですが、結局、私もディベーターの一人として参加し、「発音が悪い」だの、「何いってるか判らん」だのと様々な批判も受けたのですが、とは言うものの、何と言っても本場アメリカの学生チャンピオンのディベーターとディベートをしたという事は、それまで英語からできれば逃げて来た私にとって、非常に大きな転機であったように思います。

 そしてそれは、JBDFにとっても大きな転機で有ったように思います。この交歓ディベートをきっかけとして、87年の後半からワークショップが開始されています。それまでのJBDFの活動は2ヶ月に1回の英語のフォーマルディベートが中心だったのですが、この後はその間に、2ヶ月に1回の勉強会を開催し、米国の著名人の演説を暗記したり、ディベートの理論を勉強したりするようにしたのです。この時からJBDFの活動が毎月の活動に変わっています。また、それまでは、毎回ディベートの論題を変えてディベートをしてたのですが、交歓ディベートの練習ために同じ論題で何回もディベートをしたことがディベートの理解に役立ったという意見も多く、それ以降、半年程度、同じ論題でディベートするという今の形に変わっています。更に、それまで会場や開催日がまちまちだったのが、新橋福祉会館で第2金曜日(現在は第3金曜日)という定例会の形に定着し、以降新橋福祉会館の改修の際に一時期変更はあったものの、それ以降の活動の形態がその時に形作られました。

 余談ですが、この年に私の家に長男の悠太が生まれ、この1987年という年は、私にとって本当に忘れられない年になっています。さて、このワークショップですが、1年半ほど続きましたが、参加者が少なくなったため、89年に毎月英語ディベートを行う形に変わっています。

 ところで、わたしは88年10月から90年の9月まで組合の委員長をやっていました。その時に、ディベートを使って春闘の資料作りができるのではないかと考え、組合の合宿で執行委員を労働側と会社側に分けて、ディベート(模擬団交)を行ってみました。これは、団交の論点を予測し、データを集めたり、資料を作成する上で非常に役に立ちました。ただ、それらの資料をもとに、ディベート的な議論ができるかと言えば、必ずしもそうはならなりませんでした。様々な資料を持って望んだ交渉の場でも、結局噛み合わない議論が何回か続き、「止むを得ず了承する」という形にしかなりませんでした。この辺は、日本人の議論あるいは交渉というものの考え方に原因があるように思いますが、今後の私の歴史の中での大きな課題として捉えて行きたいと考えています。

 それはさておき、1990年になって、JBDFを揺るがす大事件が起きます。それは、未来熟日本語ディベート大会準優勝事件です。「準優勝したのがそんなに嬉しかったのか?」というのは全く逆で、日本で唯一の社会人ディベートの団体を標榜していたJBDFにとって、優勝できなかったという事が大きな刺激だったようで、当時の功刀代表がニューズレターの中で、会員に向けてげきを飛ばしています。わたしとしては、準優勝でも良かったのですが、それよりも、日本語でディベートをする事によって、ディベートが非常に良く判ったというのが大きな成果 でした。この成果を基に、91年からJBDFの活動は奇数月が日本語ディベート、偶数月が英語のフォーマルディベートという現在の形に定着しました。その成果 は翌年の未来塾ディベート大会において、見事優勝を勝ち取る形で現れています。

 さて、私のディベート人生かJBDFの記録だか判らない文章になってしまいましたが、私のディベート経験というもののほとんどがJBDFによるものであり、その発祥が1ヶ月しか違わない以上、こんな形にならざるを得ないのかもしれません。ただ、言える事は、JBDFに加わらなければ私のディベート人生は有り得なかったし、これが無ければ私がここまで英語をマスターできる事も無かったし、また、これだけ人前で話すこともできなかっただろうということです。そしてそれは、人前で英語を話す機会が持てたという事でもあり、多くの修羅場(?)を経験出来たということでもあり、英語と日本語、話し言葉と書き言葉という様な様々な切り口で言葉を学び得たということでもあります。そして最近特に感じていることですが、元々は人の意見というものをそのまま信じがちな私が新聞やテレビのニュース、あるいは上司の意見というものを冷静に分析できる能力を身に付けられたのも、かなりディベートの訓練に拠るところが大きいと考えています。もちろん、まだまだ不十分であり、今後とも私自身の訓練の場としてJBDFをますます発展させていかなければならないと考えておりますので、皆さん、今後ともよろしくお願いします。

 

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ディベートと私

小林 幹夫

 私が本格的にディベートを始めたのはJBDFに参加してからです。ディベートには以前から興味があり、本は2、3持っていましたが具体的にどうやっていいのかわからず、どこかにディベートを教えてくれる所はないかと思っていました。

 1990年の夏に、たまたまバベルでディベートのセミナーがあることを知り参加しました。これはアメリカの学生ディベーター数名が講師となり、議会ディベートを中心に教えるものでした。3日間朝から夕方まですべて英語で行い、ハードでしたが、有意義なセミナーでした。このセミナーの世話役(?)をしていたのが松本茂先生で、セミナー終了後の懇親会で話す機会があり、JBDFのことを紹介してもらいました。実は3日間のセミナーの間、受講生は必死で英語を話していたのに、松本先生はいつも日本語で話し、英語を話すのを一度も聞くことがなかったので、ひょっとしてこの先生、英語を話すのが苦手

なのかと一時余計な心配をしてしまいましたが、、JBDFに行ったとき流暢な英語で講評をしていたので安心しました(松本先生、ごめんなさい)。

 JBDFでディベートを始めてから5年になりますが、最初の頃の試合では、すぐ頭がパニック状態になり、よくとんちんかんなことを言っていました。最近は慣れと開き直りのおかげでパニック状態もずいぶん減ってきました。

これまでJBDFでの定例ディベートの外に、日米交歓ディベート、未来塾ディベート、ヨミウリディベートなど貴重な体験をすることができて満足しています。今後もディベートを続けていきたいと思います。

 以上、妻とは決してディベートをしないことにしている小林でした。

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JBDF20周年によせて

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(05/12/31)

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